わたしの棚卸しストーリー(4歳)
庭のアスパラガスは、収穫どきをすぎると、どんどんと背を高くしていった。
フサフサの葉を生やしながら、庭の端っこで育つアスパラを見るのは、
ナスやトマトを見るよりも好きだった。
アスパラガスが庭に生えている、なんて、さすが北海道、と今は思う。
当たり前に食べていた食材は、東京で買うと5本で300円くらいはする。
なんて高い野菜なんだ。あんなに簡単に生えていたのに。
おばあちゃんの家から、子どもの足で徒歩5分くらいの間に、
ひいおばあちゃんとひいおじいちゃんの家があった。
そこは、おばあちゃんの家よりは小さかった。
背が高く、頭は毛がなくてツルツルだけど鼻の高いイケメンのひいおじいちゃんが、わたしは好きだった。
ひいおばあちゃんは、いつも着物を着て、こじんまりとしていた。
ひいおばあちゃんは口うるさくて苦手だったけれど、
いつもニコニコとしているひいおじいちゃんは大好きだった。
よく遊びに行った。
ソファに座るひいおじいちゃんの頭を、子どもの手でペチペチと叩く。
なかなか強い力で叩いていたと思うのだけれど、怒られなかった。でも、
怒られなかったのは、ひ孫が可愛かったから、なんだね。
今、子どもを産める年齢になって、わかる。
わたしがこれから子どもを産んでも、多分、ひ孫を見ることなんて不可能に近い。
自分の子どもの、子どもの、子ども。
そんなにも繋がって行くのかと思うと、込み上げてくるものがある。
怒れなかったんだろう。
ジジババが孫に優しくなるのもわかる。
自分たちが、仕事も家庭も含めた、人生を頑張ってきた証が動いてかわいいわけだもの。
そんなことは、当時、全くわからなかった。
ひいおじいちゃんの家には、戦争の時の格好をした写真が飾ってあった。
料理場の棚には、いつもお菓子ボックスが置いてあって、
北海道の銘菓「六花亭」のお菓子が入っていた。
レーズンバターサンドのようなハイカラなお菓子はなくて、
リッチランドというサブレなどの焼き菓子。
日持ちがするお菓子ばかりが、擦りガラスでできた丸い入れ物に入っていた。
日本中が濃厚なバターサンドを求めていても、わたしにとって、六花亭は焼き菓子のお菓子やさんなのだ。
トマトが採れる時期に行くと、
くし切りのトマトに砂糖をかけて出してくれた。
トマトには砂糖。
それが当たり前で、いつも大好きだった。
関東にきて、トマトに砂糖をかけない人の方が多い、と知って、驚いたものだった。
今はトマトに塩をかけて食べるけれど、「トマトに砂糖」は思い出の大切な味だ。
北海道民は、多分、砂糖が好きだ。
甜菜糖の産地だから、なのかわからないけれども。
夏の縁日。
近くのスーパー「Aコープ」の盆踊り大会。
アメリカンドックの屋台では、砂糖をまぶすか、ケチャップをかけるか、二択だった。
「どちらにしますか」と選べるのが、アメリカンドックだ。
迷うことなく、砂糖を選んでいた。
そうすると、熱々のアメリカンドックをタッパーいっぱいに入れた砂糖のプールにダイブさせて、
くるくると泳がせて、砂糖衣をつけてからくれるのだ。
アメリカンドックのしょっぱさと、砂糖の甘さ。
これがたまらなく美味しくかった。
関東圏にきてから、アメリカンドックはケチャップ一択なのだと知って、あまり食べなくなった。
マクドナルドが、マックグリドルという甘じょっぱい系バーガーを販売した時、
「パクったな」とイラつくほどに、甘じょっぱい味は懐かしさの大切な味だった。
ひいじいちゃんとひいばあちゃん。
二人の顔の細部まで、全然思い出せない。
顔も、声も、全然思い出せない。
でも、こんな感触で、こんな雰囲気だったという、
その場に流れていた空気感は覚えている。
ひいじいちゃんは老衰で、ベッドの上で眠るように死んだ。
わたしもそんな風に死にたいと、悲報を聞いたときに思った。
もし今会うことができるなら、
一緒にお酒を飲みながら、戦争の話や二人の話を聞いてみたい。
同じ時間を過ごしていたのに、
そんな話をすることのできなかった幼いわたし。
同じ時間を過ごしていたのに。